お米は いのちのバッテリー 田んぼは いのちの太陽パネル(一) 日本の米つくりに思う |
根友(農業開発研究機構)代表者 秋 葉 佳 伸 |
一、農業問題、なかでも米作りの事は古くて未解決な何時もの問題である。 日本の米は高い 作りすぎて減反だ 自給率が低い 米作り農家の後継者が少なく将来が心配だとか いろいろなご意見がありそれなりに わかる内容をいっている。それだけに難しい。同じ農業の問題はWTOの中の国々でも聞かれる。 ところで最近 「ソーラーカーとか 太陽電池とかで 太陽のエネルギーを直接に吸収して活用し 輸入のエネルギーの節約」との動きがあり年々増加していることは実に結構なことである。供給が安定・安全・安心でありクリーンである。 政府も補助金を出し この不景気な次期に経済の活性化の一つにもなっている。 これをみて 私は 気がついた!。各位も既にお気づきでしょうが・・・。 すなはち 「お米は いのちのバッテリーであり すると 田んぼは いのちの太陽パネルだ」ということをである。自動車の上やいわゆる太陽パネルの四角い箱は水田と同じ形 同じ機能である。 安い米か 高い米かは 一応別として 我々日本人は幾千年の昔よりこの太陽パネルのおかげで 安定して いのちをつなぎ 今日にいたっているし また幾千年の未来まで日本に田んぼ(水田)がありさえすれば 子孫のいのちは 国際情勢がどうなろうとも国内で誰が政治の責任者であっても 一応 お米があれば 安定して いのちを確保して行けるという安心が与えられる。 これを知っているを越えて 解っている人たちが水田を保存し土地を肥やし 棚田も大事にし 米作りだけは やめたくないと頑張っているのである。 皇居内にも水田がある。古いお宮にも神田(しんでん)がある(例 住吉神社)。 私は 五十年余の家業(肥料関係百年余)を通じて お米を作っている人たちの気持ちに 感じていることは 米作りの人たちは 儲かるからやっている人というのは おそらく 日本の国の中で ただの一人もなく みな祖先や親の意をくんで とても大事な仕事としてやっていると思う。 米作りのひとには このいのちの太陽パネルの大事さが解るので 採算の不足を 他よりの収入で補いつつ続け守っている人が殆んどと言えるのが実態である。 一方 お米を買って食べている人達には 米つくりの出身者以外には 多分このような 農家の気持ちと実態のことは理解をしていないだろうと思う。 実際の話 その時の生産者の自己の消費量の余り分が 作らぬ人たちのいのちを 毎年毎年支えつづけているのである。これを云うのは私が初めてかもしれない。 お米の問題に潜んでいる本当の問題とは 価格の問題よりも 「いのちの 太陽パネルの問題だった」と最近 私も初めて気がついた。そうではないだろうか? このパネルが 日本の国に 無くなってもよいのか?どうか ということだ。 外国の米は 安いというが 未来の我々や 子孫 民族の いのちの保証をするものであるか? そうではあり得ない。日本米の価格には将来の保険料も含む。 こうなると この命の太陽パネルは 日本中の人々 みんなで 大事にしてゆく必要があると思うのである。絶対に大事にしてゆかねばならない。 是が まず問題の要点であって 価格の問題とは次元が違うのである。そこで 先ず水田を確保し 保存し 管理し 活用する これらの費用の全部を米の価格として 農家と消費者のみの負担としている現況は無理と考える。 かつ米作りは自然相手であり季節ははずせない。一般に 春の四・五・六月には 各地でいっせいに田植えとなり多くの人手が一時期に集中する。毎年同じでない天候の影響の中で 種もみまき 育苗 田植 分げつ 成長 幼穂形成 八月出穂 開花 受精 稔実 以後約六十日後の 九・十月に刈取 脱穀 乾燥 保管するが一年過ぎると価値無き古米となる生鮮食品なので 毎年新しい米が必要。 毎年が真剣勝負である。さて そこで 漸く袋に詰めてやれやれ出荷となれば 現在の価格の安さである。いま 六〇キログラム一俵の農家の手取りは一万五千円には程遠い(一万円に近い)のだが これは 消費者は毎食約六十グラム食べるので約十五円に当たる。これで 日本人の命は保つ。この米の価格が高いのだろうか?安すぎると思う。だから 誰が喜んで米作りをしているか!とも思えるが しかし 命は大事 田んぼは大事 土地と自然の有難い恩恵を思う。だから 毎年辛抱しても米作りを続けている。これが現実の姿ではないだろうか? 消費者(や流通者)は安い程よいというが では どこまで安くしろというのか? 来年の経費のためには やむを得ず米を手放さざるを得ないのであるが 本当なら こんな人達には 売りたくないとも思うのが本音かとも察するが・・。 情けの無いはなしと思う。こんな事が今の世にあってもよいものか? しかし 田んぼは 日本人の命の太陽パネルと解っている 米つくりの人たちの思いは もっと大きく清らかで お宮の神様の心の如く尊いものと拝察する。 それでもまだ 「耕地面積を広げて 海外の米の価格に近づけろ」 とか云う人がいるが 日本の耕地面積と アメリカ等の耕地面積と生産性の比較は 全然違っていて問題にならない。よって先ず日本のパネルの保存の重要性と その管理活用者達(耕作者)への配慮のありかたを正してゆくべきとおもう。(つづく) 秋葉佳伸 昭和11年(1936)年茨城県結城市生まれ。下妻一高。麗澤短大卒。昭和32年(1957)年家業の秋葉喬庸商店勤務 昭和42年(1967)年10月根友会(農事研究会)発足 昭和53年(1978)年 根友(農業開発研究機構)設立し代表者 ホームページ http://www,konyu.jp 又は 根友 メール akibay@konyu.jp お米は いのちの バッテリー 田んぼは いのちの 太陽パネル(二) ・・・日本の米つくりに思う 根友(農業開発研究機構)代表者 秋 葉 佳 伸 二、そこで 気になることは 経済人すなはち学者や政治家や消費者 生産流通業者の方々の言葉はモノとカネのことばかりであって これはどうかしている。 殆んどの人達は 自分の生活のみを考えていて 相手や 第三者のこと、すなはち 「農家の現実や実際に米を作る大自然の力・環境の恩恵を有難く思う」 というような感謝の心をあらわす声が 殆んど 聞こえないのである。 不作や 被害 災害のニュースはあっても 豊作で感謝と思いやりなどはない。 昔の日本人は豊かなこころがあったといわれる。農業の世界には今でもある。 豊かな心とは何か?それは大自然の働きに感謝と歓喜や御礼(禮)報恩の心である。 田舎では今でも毎年 春秋のお祭りがある。自然の環境の大恩恵に対する敬虔な感謝と今年の収穫に向けては無事に稲・五穀が育ってもらうための祈りである。 次に秋の収穫祭のことである。喜び 歓喜と報恩である。中間に夏の祭りもある。 数年前に日本の伊勢神宮における 神嘗祭(かんなめさい)行事の道端に参列させて頂き 千年以上前から今日まで 先の戦時中にも欠かすことなく毎年のお祭りが続けられており「そしてこの年の収穫の感謝の行事を捧げ そのときより 既に来年が始まっている」とのことで一層 感銘・感動をいたしました。。 流通者や消費者には 豊かな心を持ってお米を仕入れ買い求め また 売り渡して頂きたいと思います。生産者には 有難う おつかれさま 大変だったでしょう、とのねぎらう心である、代金の支払いとは 御礼の心のあらわれである と同時に、当然 自分に代わり お米をつくるひとが家庭を営み 来年の仕事への準備金を負担し また貯蓄もするようでないといけない と思う。 約 十年前のある日 私は 東北地方のある村にできた 温泉付の宿泊できる所を 仕事上訪問した際 農協のひとに 教わり そこで よい風呂に入って くつろぐ事ができたのであるが・・・ あとから入ってきて となりになった私ぐらいの人に声をかけた 「やあ よいお風呂ですね」「うん」 「ぼくは昭和十一年生まれですが おたくは 何年ぐらいですか」「ああ おんなじだな」 そこで この風呂の出来たわけを聴けば「ふるさと 創生資金の活用だな」とのことであった。なるほどとおもい 私は 何か話をと思って「孫は可愛いですね?」ともちかけたところ 「俺んちでは 孫はいねえ、せがれは 四十(歳)ちかくになるが まだ ひとりもんだ、よめにくるのが いねえんだ 村じゅう どこんちも みんなそうだ・・・ひとりもんばっかりだ」とのこと。わたしは愕然としてしまって二の句につまってしまった・・・。そのまま 何を話す事もできずに風呂よりあがった。 わたしの地域では 工業高校もあり工業団地もあり車で一時間内外で通勤できる職場も多い。しかしこの地域になると それも無理だし 冬は雪も積もる事だし・・・なるほど困ったことだなあと 床の中に入っても思い巡らす・・・。 僕と同じ年齢とすると あの頃は 日本の国中が食料に困り 農業 特に米つくりの農家では 肥料などは少ないいから厩(まやごえ 馬小屋の敷き藁)を利用して堆肥を作り 田んぼに運び入れ 牛や馬を使って代をかき 草を手で取りながら一俵でも多くの米を作り ときには ほぼ強制的な供出で日本人の飢えをしのぐことに全力をあげたにちがいない。そういう中で高校進学者も少なかった時代である。 一生懸命に親の手助けをしつつ成長し結婚し子を育て 親をも 無事に見送った。その後の高度経済成長の時代を経て 米の減反政策が始まり米価は下り続く。他の産業の成長のスピードは早い。自分達は六十五の年にちかくなり 子供は四十に近い年令に達している。が若夫婦が出来ない・・・。 此のままでもよいのか よいわけが無い。何とかしなければならない。 土地の広さが比較にならない 海外米の輸入価格との対比とは無理なことである。 さて「フランスでの小麦の価格は アメリカやカナダやオーストラリア産の輸出価格に対抗できるような価格としつつ 農家所得の不足分を国家的に補っているので 穀物の自給率は一〇〇%を越えている」とのことである。 農家の職種の転換はどうしても世代を経ながらでないと無理だ。 これは 世界中にいえていると思う。その間の農業政策には大いに注意がいる。 私は このフランスやEU諸国での政策こそ 研究し日本的に実行をする必要があると思っている。個人的には研究不測で申し訳ない次第であるが・・・。 さて 私の経済の勉強では 「経済という語の意味は 『経世済民』(世をおさめ民をすくう)ということで 一部の企業や人がどの程度の利益を上げるかというような部分的なことのみではない。 そもそも国民全体の生存と発達と安心と平和と幸福の実現をはかるために経済学が始められたもので 自己保存の本能・道徳的本能・社会構成の原理という三方よしでなければならぬ」との事である。 そこで「米作を考える要点は 日本の 田んぼは 過去現在未来永遠に貴重な 日本人の いのちのパネル である事を中心にすえて 考察し計画すべきである」と提言する。同時に何といっても太陽はじめ大自然こそ万物育成の原動力でそれによって私たちの生存がある。「これに対する感謝報恩の心と謙虚さと誠実さで 太陽のような寛大さと慈悲の心を体得した高い品性のある人格者こそが政治・経済・教育等社会の各方面のリーダーたるべき」とは我が師の教えである。(完) 秋葉佳伸 昭和11年(1936)年茨城県結城市生まれ。下妻一高。麗澤短大卒。昭和32年(1957)年家業の秋葉喬庸商店勤務 昭和42年(1967)年10月根友会(農事研究会)発足 昭和53年(1978)年根友(農業開発研究機構)設立し代表者 |